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Interview

PCサーバーの「想定外」をつぶしながら到達した「技術のマネジメント」という天職

電気系 生涯プロエンジニア(R)

森 俊博

エンジニア略歴

  • 1982年メイテック入社
  • 1982年~自動搬送装置(車両)の設計
  • 1983年~端末装置の設計
  • 1988年~パーソナルコンピューター(PC)の設計開発
  • 1995年~PCサーバー品質管理および保守設計
  • 2002年~PCサーバー生産工程設計および生産品質管理
  • 2020年3月定年到達

最初のLSI 設計で
「想定外」のミスから学ぶ

子どものころはものづくりが大好きな「プラモデル少年」。
高校生になるとそれが「Uコン」「ラジコン」へと発展し、金属加工の工場を営んでいた父に相談しながら、旋盤を使ってパーツをつくったりしていました。
 
大学ではプログラミングを学び、同期の多くが東京の企業に就職する中、私は地元名古屋にあるメイテック(当時は名古屋技術センター)を選びました。大手メーカーで技術職を希望しても、営業や事務職に配属されるかもしれない。メイテックなら技術の道を歩めると考えたのです。
 
入社して最初の1年は名古屋のメーカーで自動搬送装置のマイコン開発を担当。
2年目に配属されたのが、私のエンジニア人生のほぼ全てと言えるほど長くお世話になったお客さまです。事業部移管や分社を経て、現在まで37年、端末・PC・サーバー関連のものづくりに関わりました。
 
配属当初は、銀行の窓口端末や鉄道発券機などの評価から始め、2年ほどしてLSI の設計を任されます。6000 ゲート(トランジスタ)程の規模でしたが、全てのロジックを紙に書いて積み上げると何センチにもなる量でした。
 
私は初のロジック設計に没頭します。
分からないことは、先輩に聞きながらロジックを組み、試作にも立ち会ったのですが、LSI を基板に取り付けてみると動かない! 自分ではチェックし尽くしたつもりのロジックにバグがあったのです。一人では「想定外」をつぶしきれない。設計段階でのレビューの重要性が身に染みました。
 
今思えば、先輩や上司は私がレビューを頼むのを待ち構えつつ、手を出さずに見守って経験を積ませてくれたのでしょう。

その後再度のチャンスをいただき、同じLSIをつくり直すことができました。この経験は、レビューの重要性とともに、「一度は任せる」という若手の指導法としても私の中に残っています。

トラブル対応で出合った
「想定外」が自分を強くした

当時の業務用端末は汎用機が主流。
メーカーの個性が出せる反面、共通のアプリケーションが使えない短所がありました。そのため1980 年代の終わりになると、業務用端末もPC ネットワーク主導へ転換します。

メインボード担当となった私も、PC技術を取り入れるためPC 製造工場に通い、情報を集めました。病院や銀行などに納入される業務用端末は、「止まってはいけない」ものでしたから、ハードが壊れてもダウンしないシステムを目指しました。

海外メーカーとの共同開発プロジェクトの際には、4人チームの一員としてアメリカに渡るという経験もさせてもらいました。
 
その後PC サーバーのメインボードを担当。
それが大手金融機関で採用されると、納入台数は「爆発的」と言えるほどで、台数に比例して不具合の発生も増えました。

設計担当としてユーザー対応で全国を走り回った時期は、技術面でも人間力の面でも大きく成長できたように思います。
 
ユーザーの前に出れば「メインボードしか分かりません」とは言えません。
電源の発煙対策なら電気や機械の知識が必要ですし、ハードディスクがクラッシュすればサプライヤーから情報をもらいます。その際、勉強しておかないと聞いても分かりませんから、トラブルのたびに勉強量は増えました。そしてここにも多くの「想定外」がありました。
 
例えば、量販店チェーンからの「サーバーがすぐダウンする」との苦情で行ってみると、人通りの激しいレジ横にサーバーが置かれており、ホコリで冷却ファンが汚れて発熱。それがサーバーダウンの原因だったのです。

「ここにサーバーを置く?」と思いましたが、何にでも「まさか」の使われ方というのはあり、それもまた勉強。最後のほうはトラブルと聞くと、「今度はなんだ?」と逆に士気が上がったものです(笑)。

海外メーカーと協業しつつ
日本ブランドの品質を守る

2000年以降、製品開発は海外ODM(Original Design Manufacturing)の活用にシフトしていきました。
設計は国内で行い、図面を台湾や中国の受託メーカーに渡して生産を委託します。技術指導で現地へ行くほか、製造トラブルの際も出張。前述のユーザー対応を経て、電気・機械・ソフトまで一人で対応できるため、「よろずレスキュー」として重宝されたのでしょう。

数々のトラブルに対応するうち、ロジックや図面・資料を見て、どこに問題が起きそうか、見当がつくようにもなりました。 
 
対応する現地工場のエンジニアにも彼らなりの主張があります。
その姿は若いころの自分を見ているようでした。そこで、失敗を経験させてくれた昔の上司に倣い、意見がぶつかるときは「考えるとおりやってみて」と一回は任せました。

多くの場合、私の懸念が現実化してしまいましたが、やはり体験してこそ納得でき、身に付くもの。良い関係が築けたように思います。 
 
私が50代になるころには、コンピューター機器の製造はODMからさらに進んでOEM(Original Equipment Manufacturer)中心になり、製造だけでなく、製品設計も外部企業へ委託するようになります。

それに伴い、私が設計する対象は「製品そのもの」ではなく、「ものづくりの工程」へと移行しました。「製品の設計委託先選定」「部品の調達先選定」「品質チェック」「出荷」など、設計から出荷するまでの工程を組み立てて管理する役割、すなわちサプライチェーン全体の設計です。

技術面のまとめ役として
認めていただき、課長職に

ミッションは「費用は安く」「作業者の負担を少なく」なおかつ「どこで誰がつくっても、お客さま先ブランドの製品として問題ない品質にする」こと。

OEM の場合、設計開発や生産の様子は見られません。何か問題があるときは、図面と出来上がった製品を見て、「どうしてここを失敗?」と、プロセスの良し悪しを想像し、原因を突き止めます。

ODMで中国や台湾のものづくりを見てきた経験から、問題が起きそうな部分は手を打ちましたが、それでも最初は多くの「想定外」に見舞われ、ようやく順調に回るようになってきたところです。
 
サプライチェーン構築は奥が深く、まだ改善の余地がある。定年到達後もしばらくは業務が継続する予定ですが、永遠には続けられないので、後輩へのノウハウの伝授も始めています。
 
振り返ると、LSI、メインボード、サーバーと、製品の部分から全体へと視野を広げる形でステップアップできました。深く極めた、とは言えませんが、サーバーに関しては全体が分かるエンジニアとして知識を広げ、技術面でのマネジメントの道へ進みました。

お客さま先では「課長」の肩書をいただき、プレイングマネージャーとして現在も5名のメンバーをとりまとめています。成長を実感できるキャリアを積めたこと、そしてその成長を周囲にも認めていただけたことは、とても幸運なことだと思っています。
 
今後は、身体が動く限り働き続けたいと思う一方で、いずれ悠々自適に過ごしてみたい気持ちもあります。
宮古島が好きで、移住してみたいと密かに夢見ていますが、家族にはまだ話していません。どう話すか、今から考えておかないといけませんね(笑)

(インタビュー:2020 年1月15日)

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