Loading

Interview

機構だけ知るエンジニアから電気も分かるエンジニアへ。10年先の技術を見据えて一歩踏み出した

機械系エンジニア

宮井 秀和

機械屋が電気の仕事をする、ほとんどパズルを解いているような毎日です

エンジニア略歴

  • 1998年新卒入社
  • 1998年~プリンター部品生産用設備・治具の設計・開発
  • 2002年~プラント用大型集塵機の設計・開発
  • 2003年~自動二輪・ATV(全地形対応車=四輪バギー)用クラッチの設計・開発
  • 2011年~自動車用操舵装置(ステアリングコラム)の設計・開発
  • 2023年~自動車用インバーターの設計・開発

設計をしたかった。
でも、何をしたいか分からなかった

自らの専門領域を核に周辺分野に知識を広げるのが、エンジニアの一般的な成長過程。しかし、技術の変化に対応できないこともある。今回は、機械系の仕事を25年続けながら、あえて電気中心の職場を選んだ宮井さんを紹介する。

振り返ると、小学生の頃にはもうエンジニアになると決めていた宮井さん。

「鉄道好きで、いつも世界に存在しない銀河鉄道のような絵ばかりを描いていました。設計というよりはデザイナー志向だったのですが、同じ気持ちを持ち続け、大学では機械工学を専攻しました」

「卒業研究を選ぶとき、先輩の成果を見ると過去の製品の改良のような、当時の私から見ると発展性のないものばかりでした。誰もつくらなかったものに挑戦したくて『足踏み式空き缶プレスの設計、製作』という課題を選択、同級生の実家で実作までしてもらいました。単純な機構でしたが、教授は大喜びで学会に出たとき話のタネにしてくれたそうです」

卒業した年はまさに、就職氷河期の真っただ中。鉄道の設計をできるような会社は募集すらしていないありさまだった。

「鉄道への道がふさがれ、何をしたいか分からなくなりました。しかし、ものづくりの仕事はしたかった。何をするか決めなくてもいい職種として派遣エンジニアが見つかりました。同業他社も軒並み受けて、メイテックに入社することになりました」

本業設計のお手伝いさんとして
機械設計の経験を重ねた

最初の配属先は故郷を離れて長野県の精密機器メーカーへ。インクジェットプリンター生産機器の設計部門へ配属された。

「何も分からないので、トレーサーのようなお手伝いから始まりました。でも、その中で要望には応えるように努力しました。3年7カ月継続していただき、CADに関する知識のない状態から、使いこなして設計できるレベルにまで上達したのが収穫といえるでしょうか」

「配属された職場は知り合いのいない町で、同じ部署にメイテックの人はいたものの、研修所も異なり初対面。コミュニケーション能力が高い方でもなかったので苦労しましたが、地域コミュニティに参加するとお客さま先の人がいることもあり、そこで人脈を広げていきました」

その後、環境機器の設計を経て、二輪車およびATV(全地形対応車=四輪バギー)のクラッチの開発業務へ。宮井さんにとって大きなジャンプとなる。

「エンジンの回転を車輪につなげる、コアというべき機構部分です。ギアチェンジするために、エンジンからの動力を切り離したり、つなげたりする機構は複雑で勉強になりました」

「ここで学んだのは、それまで関わっていた家電製品に比べて要求される耐久性・安全性能の次元が異なっていることでした。例えばレースのような過酷な環境でも1000㎞連続走行に耐え得るような金属の材質と厚み、さらにその表面に貼り付ける摩擦材の選定まで、ぎりぎりの設計を続けていきました」

「戦力になれるまで2年間は必要でした。その間は、最初の配属先同様に本業設計のお手伝いさんとしてお客さまの信頼をつないでいきました。その後も、テストしたら壊れた、納期に遅れた、スペックを満たせなかったなどの失敗の山をつくりました。なんとか8年間継続し、最後には設計した成果物に関してエンドユーザーの担当者とコミュニケーションを取り、了解まで得るプロジェクトリーダー的な職務を任せていただけるようになりました」

意思伝達に悩んだ職場で
進むべき道を「電気」に定めた

その後もキャリアは「自動車」「複雑なメカニズム」というキーワードの元に発展していく。11年間継続したのは、自動車用操舵装置(ステアリングコラム)の設計業務だった。自動車でハンドリングを車輪に伝えて方向を定める、これもまた自動車になくてはならない装置。

「機構は複雑さを増しました。クラッチでは部品数10~20点ぐらいだったのが、コラムでは点以上のものもありました」

「それ以上に苦しんだのはコミュニケーションでした。この会社には各部門の業務範囲を規定したルールはあっても、人手不足などの理由で隅々にまで手が回らないという課題がありました。設計が終わり、次工程に渡して業務完了のはずが、試作・試験・製造まで、フォローしないと予測しないトラブルが起こります。徹底的にこじれたのが試作部門の担当者。なかなか良品ができず、毎日1時間以上電話で口論するような時期もありました」

だが、それが成長のきっかけとなる。

「『何を言っているか分からないんだよ』と言われたこともありました。そこで自分のコミュニケーションを再検討してみました。分かったのは、私の話は時々軌道を外れ、あらぬ方向に進んでしまうこと。ミーティングが何を目的としているかを見失い、枝葉の部分にひっかかっていました。自分でも気をつけるようにしてから、かなりの部分が好転していきました」

次に進むべきステップも見つかった。

「11年目の最後のころに電動コラムの開発を担当しました。従来、手動で行っていた操作を電気に置き換えていく。必要な技術習得のために調べると、この領域の需要が高まっていました。自動車が必然的に電気自動車に向かっていく中で、電気の知識が必要不可欠であると分かってきました」

電気部品を「使いこなす」から、
電気部品の「内部の理解」へ

ステアリングコラム開発の現場は無事に終了。所属していたECにも案件はあったが、機構設計ばかりだった。電気を学びたい気持ちが強く、結果ソリューションセンターに移動した。電子部品メーカーに派遣され、自動車用電力装置インバーター開発業務に携わる。

「幸か不幸か、現在関わっているのは、電気部品の設計の中でもケースや伝達部分など『電気以外』の部分です。それでも、過去の経験と全く性格が違うのを痛感しています。鋼鉄の部品なら多少の衝撃が加わっても壊れませんが、電子部品では許されません。熱の概念も大きく異なり、電気を通すことで部品自体が熱を持つ、頭の中に『?』が広がり毎日パズルを解いているようです。私はここでも、本業設計のお手伝いさんから始めて、自分の場所を模索している現状です」

「このままでいいとは思っていません。現在は、電気設計者が何を考えて設計しているのか十分な理解はなく、遠巻きに見ながら、その要望に応える段階。電気部品の内部にまで理解を深めて、機能や改善すべき点について口を出せなければ、この道に進んだ意味はありません」

きっかけとなったのは「自動車技術の未来を捉える」ために電気が必要ということだった。だが、現在では自動車にこだわる必要もないと考えている。機構設計と電気の組み合わせで動く仕事なら、製品領域に関しては自由に考えていきたいという宮井さん。さらには、英語を勉強して海外とのコミュニケーションも広げていきたい……など。将来の活躍舞台への可能性も着々と広がる48歳だ。

※当社社内報「SYORYU」:2024年春発刊号に掲載した記事です

エンジニアインタビューをもっと見る