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Interview

ミクロン単位のCCDから、数百平方メートルの生産設備へ。この差を超えて機械屋魂よみがえる。

機械系エンジニア

田口 信人

エンジニア略歴

  • 1997年メイテックへ新卒入社
  • 1997年~管理用(入退室など)ICカード開発
  • 1998年~小型電池の部品図作成
  • 1999年~民生用、産業用イメージセンサー開発
  • 2011年~自動車用トルクコンバーター製造設備設計

機械いじりが好きな少年は、
なぜか半導体の分野に進んだ。

エンジニアにとって、コアな技術は、本来一つのものかもしれない。だが、職場の事情や時代環境により変化し、ときには別次元に進まざるを得ないこともある。そんな中、戸惑いながらも、エンジニアとしての本来の姿へ歩き出した人がいる。「父親も機械が好きで車好き。休日にはガレージでボンネットを開けて調整しているような人でした」。田口さんは、子どものころから油にまみれて機械を解体しては組み立てる少年だった。

「私の子ども時代というのは、ラジコンブームだったんですが、自分なりに改造して性能アップをするようなことを繰り返していました」

そんな田口さんは、自然の流れで理系に進む。

「受験にあたっては、建築系か機械系かと考えて、結局受かった学校に入学しました。幸運だったのは、その学校が『企業生』に力を入れていたこと。いったん工業大学を出て、一線で働いているような人が、学び直すために再入学してくるような学校でした。同級生には38歳の人もいて、技術のことも仕事に対する考え方も、いろいろ教えてもらいましたね」

卒業研究は、他の工業大学とのジョイントで、自走式ロボットの開発をした。就職に当たっては、製造メーカーも考えたが、一度きりの自分の人生の中で、どこで勝負していくのか、当時は一つに決めきれなかった。そこで「多様な仕事ができる」という触れ込みだったメイテックとの出会いとなる。

「面接で、『全国どこでも行けますか?』と聞かれ、合格したかったので、『もちろんです!』、と元気よく答えた。それが、まさかこんなことになるとは思ってもみませんでしたが(笑)」

ME系エンジニアとして歩き始めた田口さん。しかし、そのキャリアは意外な方向に向かっていった。入社して、最初の配属先となったのは、なんと半導体メーカーの開発部門だったのだ。

製造技術から材料まで
総合的に半導体づくりを考えた。

「電磁誘導を利用したICタグを開発している部署でした。製品は、電子マネー用カードや、空港の荷物自動振り分けに使われるもの。コイルに発生した磁力により、タグ側コイルに電気を発生させ、非接触で情報をやりとりする仕組みです。その実装試験が私の仕事になりました」

より確実にデータを読み取れるようにするには、コイルの巻き数は何回がいいか、ワイヤや芯の材質は、どれが最適かを考える。何十種類も試作をしては、試験を行い、最適な方法を導き出していく。その過程では、材料や通信方式に関する調査も行い、サプライヤーとの交渉を行うところも任されるまでに。上司にも恵まれ、非常に幅広い仕事にかかわることができた。何よりも、半導体開発がどのようなプロセスで動くのか、現場の論理を学ぶことができたのが、非常に大きな収穫だった。

その後、設計補助の仕事を経て、家電メーカーに配属。デジタルカメラの「目」の部分となる半導体CCDの開発現場へ。パッケージの設計から、製造技術の開発まで任され、契約は12年間継続した。

「デジタルカメラの黄金時代と呼べる時期でした。マーケットが急拡大する中、画素数の増加、小型化という技術革新もハイスピードで進んでいました。予算も使えたし、自分なりに工夫して、いろいろな試みをすることができました」

特定の機能を果たすCCDに対して、そのサイズをどこまでコンパクトに追い込めるか。単に図面上でパッケージを設計するというのではなく、製造コンセプトから考えていった。製造過程には、パッケージにガラスでふたをするというプロセスがあるが、ここで使用する樹脂接着剤を工夫することにより、のりしろの部分をミクロン単位で節約することができる。さまざまな樹脂成分を混合しながら、歩留まりとコンパクト化という二律背反を両立させていく。さらには、より効率的に製造できる方法を提案しては、設備メーカーと共に、テストラインをつくり、導入する業務も経験した。

「デジタルカメラに使われたCCDは、数百万画素で9ミリメートル角というようなものでしたが、最終的に内視鏡レンズに使われる1ミリメートル角のものまで実現しました。CCDの製造にかかわったことで自信も生まれたし、この分野で一生食えると思っていました」

だがそこで、リーマンショックとマーケットの縮小が同時に起こり、12年間継続した契約が終了してしまう。

渋々赴任した自動車部品領域で
よみがえってきた機械屋の本能。

「幸運なことに、契約終了の時には、次の配属先が決まっていました。でも、畑違い。自動車のオートマチックトランスミッションに使われるトルクコンバーターの製造設備にかかわる仕事でした」

今までとは異なる領域の業務で、さらに福井に単身赴任しなければならず、転職すら選択肢の一つと考えるほどだった。正直、最初は、渋々新しい現場に立った。

「この仕事、最初は何百平方メートルという更地を提供されるところから始まります。そこに、どのように生産機械を配置していくか。さらに工程間搬送をどのように行っていくか。考え方としては、半導体の上にプロセスをレイアウトしていく作業に近いのかもしれません。しかし、サイズは数万倍。やはり、ものの見方、考え方を変えなければ、やっていけないと思いましたね」

すべてがゼロからの学習。戸惑いもあった。だが、その中で忘れていた機械屋の血がたぎり始めるのを感じていた。

「トルクコンバーターというものは、対応車種により、2倍3倍と大きくサイズが異なるものです。普通に考えたら、一つのラインで、小型と大型に対応するのは無理だ、ということになります。しかし、工場の効率を考えると、どうしても実現が必要なケースも生まれる。部品の固定方式や搬送方式を工夫することで、サイズが異なる製品を一つのラインでつくれないか、と考えていく。難易度は高い。でも、難しいほど燃え上がるのがエンジニア魂というものでしょう」

石の上にもすでに3年、しばらくは離れられないと、考えるようにもなった。

「お客さま先の上司から、2017年に立ち上がるラインを始めてくれ、などと言われるようになりました。え? 私それまで、単身赴任しているんですか? という感じ(笑)。頼りにされているのは、ありがたいし、その意味でエンジニアとしての本分を満たしているとも思います」

最近、田口さんがよく思うのは「腐ったら、終わり」ということ。畑違いの業務内容であっても、そこでやる気をなくしてしまったら、それこそ何も得るものはない。全力を尽くせば、大きな収穫が待っている。「これからも、エンジニアとしての幅を広げていきますよ」と言い切った。


※当社社内報「SYORYU」:2015年冬発刊号に掲載した記事です

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