機械系 生涯プロエンジニア(R)華山 昇さん

電気+機械+新規技術を使いこなして、
「自分自身の技術」と「仲間の舞台」を開拓し続けた。


●プロフィール
1977年 メイテック入社
1977年~ 艤装(ぎそう)品(船舶)の詳細設計
1978年~ ロケット用・プラント用油圧ユニット設計
1985年~ 住宅プレカット工場用番付ロボットの社内・メーカー共同開発設計
1987年~ 航空機生産設計、ロケット構造設計
1990年~ プラント用装置設備の開発設計
1993年~ 航空機・宇宙循環機の開発設計
1997年~ 不織布専用工作機の開発設計
1998年~ 半導体製造設備用測定装置の開発設計
2000年~ 測定装置の開発設計
2003年~ 自動車用シリンダブロック金型の評価・対策
2005年~ 自動車部品用溶接生産設備の構想設計
2007年~ 金属加工機械のマシニングセンターの構想検討・設計
2012年~ 社内新卒社員導入・技術研修の計画・開発および研修講師実施・運営など
2015年~ 自動車用センサー生産設備の改修・構想設計
2015年9月 定年到達

専門学校に通い直して、
電気と機械の知識を得た

子どものころには、漫画ばかりを描いていました。
趣味の合う幼なじみが2人いて、ロボット担当、ギャグ担当、私はリアルな劇画担当でした。

野球漫画などでは立体的な構図も上手に描けました。
その能力を活かして、エンジニアになろうとは思ったこともありませんでしたが……。

高校を卒業した時には、オイルショック後の不況で、大学を出た兄たちは就職に苦しんでいました。
「だったら、手に職を付けなくては」ということで、電気の専門学校に進学。

卒業後入社したのは、大手電工会社の特約代理店で、学校や公共の体育館に放送設備などの通信機器を据え付けする会社。

そのために配電盤、制御盤などの機械設計をする仕事がありました。
専門学校では電気系を専攻していたので、機械設計はなじみが無く、会社から夜間の専門学校に行かせてもらい、設計の勉強をしました。

仕事には苦労しました。
先輩からは「おまえの線は死んでいる」とか「製図文字が引きつっている」と言われ、必死で練習を繰り返しました。

でも、和紙を使って描いた実際の図面には、自分の名前が記されて元請けの大手ゼネコンに提出されるので、うれしかったことを覚えています。

仕事は充実していましたが、給料が安かった(笑)。
そこで退社して、給料を頼りに探した転職先が、メイテック(当時は名古屋技術センター)でした。

油圧機械の設計技術で、
造船から宇宙開発に幅を広げた

名古屋出身の私でしたが、入社してすぐ、営業の車で連れて行かれたのが三重県の津にあった造船所。
そのまま独身寮を用意してもらい「明日から出勤してください」という、あっと言う間の配属となりました。

仕事は、そこでつくられている船で使用する隔壁ドアやクレーンに使われる油圧装置の設計。
この設計は、電気で指令を出したりするので、元々私が勉強していた電気の世界に考え方は近いのですが、油圧装置のサイズとパワーがけた違いでした。
70㎏/平方㎝という非常に強大なスペックの機械ですので、強度計算を間違えると破裂してしまう恐れすらありました。

とはいうものの、派遣の立場ではあっても大手企業の一員として働くことはうれしかったし、やっぱり、図面上に「華山」の名前が残るのも大きな満足感で、モチベーションとなりました。

それでも給料は安く、隔週土曜出社で働くのはきつかった。
ある時の社員イベントで、当時の取締役にぼやいたのを覚えています。

「どうして、こんなに給料安いんですか?」
「大丈夫、会社は君に悪いようにはしないから」

ということで希望を受け入れていただき、お客さま先変更となりました。

今度は大手重工メーカーで宇宙ロケットにかかわる仕事に就くことになりました。
ロケットを発射台に載せて、発射する前に方向を微調整するのに、油圧装置が必要になる。

そこに、私の経験が活かせることになりました。
ところが、設計を始めてみると、設計者としての未熟さを思い知らされることに。

圧力損失や重量損失……膨大な強度計算が必要で、さらに、技術の基本がアメリカ発なので、専門書も、ネジの説明も全部英語。

計測単位さえ「ガロン」で、すべてがアメリカ製だったので、文書を理解したり、計算したりするのに大変苦労しました。

そんな中でもしっかりと仕事をこなしていく先輩を見て、「この人を目標に追い付いていこう」と、それだけを考えて何とか乗り切ることができました。
その後、種子島の地上支援設備に据え付けに行った時の充実感は大変なもので、今でもありありとその風景が浮かびます。

ロボット技術や宇宙循環機など
まったく新しい領域に挑む

大手重工メーカーでの仕事は7年間続き、いろいろな経験をさせてもらいましたが、営業上の折り合いが付かずに契約終了となります。

その次に任されたのは、請負業務。
大手電機メーカーとメイテックの共同開発のかたちで、住宅用木材の自動加工設備の開発を行いました。
ちょうど、工務店の後継者がいないということが社会問題化していた時代。

工業化住宅の設計図をCAD/CAMでデータ化して、ロボット技術により木材を自動加工するというシステムの構築を行いました。

まったく前例のない技術であり、教えてくれる人がいたわけでもありません。
しかも半年で立ち上げなければならない。
専門書を読んでプログラミングを繰り返すなど、試行錯誤しながら、何とか納期に間に合わせました。

ちょうどメイテックが「研究開発型企業」という方向性に進もうとしていた時代。
社内には請負業務をしているエンジニアがいっぱいいて、私の仕事以外にもカーナビの前身のような地図CADを官公庁に納めたりするような実例が多くあり、新聞の経済欄を見るのが楽しみでした。

その後も、次々と難易度の高い仕事に携わることができました。
以前配属されていた重工メーカーに戻り、航空機やロケットの構造設計にかかわることがありました。

また、特殊鋼メーカーで、真空精錬誘導炉を設計したこともありました。
そこでは、お客さま先の人々の鉄に対する想い、材料・機械工学のすごさを思い知らされました。

官公庁からの依頼により、宇宙循環機を開発したこともありました。
密閉されたパイプの中で、電子をぐるぐる回すことによりエネルギーを生み出す加速管実験装置。

時代が二次元CADから三次元CADに移行していく中で、時代を先取りする設計の仕事を経験することができたのは幸運でした。

新規の仕事や社員教育で、
メイテックの仲間の舞台を広げた

40歳を過ぎたころから、メイテックとして新規のお客さまからの契約が相次ぎました。

メイテックのエンジニアの先陣を切って派遣される。
そして、仲間のために活動場所を開いていく、という立場には、大変な緊張感がありました。

技術に関しても、まったく未経験な分野に必死で食らいついていきながら、単に技術的な成果を出すだけではなく、私自身がメイテックのエンジニアのレベルを示す者としてお客さまの信頼を獲得していく。

このプレッシャーは大変なもので、短期、中期、長期の派遣期間を無事に遂行できたのも、お客さま、メイテックの上司、先輩、同僚、後輩との「きずな」と「支え」のおかげです。

こうやって成長できたことが、私の小さな誇りです。

そんな中でも、面白かった仕事は、半導体設備用測定装置の設計。
トルク測定装置を設計したり、測定装置のX軸、Y軸、Z軸、θ軸の位置決めのための精度を計算するなど、未経験の世界でも自分なりに考えて技術をキャッチアップしていくことが面白く、自分の力にもなりました。

最初は「自分は、このお客さま先では、長く続かないかもしれないな」と思っていたのに、最後には「転職してうちに勤めてくれないか」というありがたいお申し出までいただけたことがうれしく、今でも心に残っています。

リーマンショック後には6年間、社内に残ることになりました。
後半は、新入社員研修の講師の仕事。
若手エンジニアと触れ合うことは、自分の経験の棚卸しにもなりいい刺激になりました。

私がロケットの話をすると、身を乗り出して聞いてくる。
ベテランエンジニアから若手へ、メイテックの技術とスピリットが受け継がれていくのは、本当に頼もしく感じています。

2015年1月からは、久々の現場に出ることもできました。
自動車センサー生産設備の改修・構想設計。

ありがたいことに、契約の継続が決まっています。

メイテックで働くということは、常にチャレンジの連続でした。
背伸びをしていたら、本当にその背丈に到達していたような感覚があり、さまざまな成長機会にあふれていたと、振り返っているところです。

(インタビュー:2015年6月17日)

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