電気・電子系エンジニア 田仲 紀彦さん

●プロフィール
1991年  新卒入社
1991年~ 無効電力補償装置、超電導電力貯蔵装置の回路設計
1998年~ 医療用検体搬送システムの電気回路、ハーネス設計
2000年~ 車載用ECUの回路設計

電源という「狭くて深い」領域を
突き詰めて至った世界水準。

提出しては突き返される、
レポートの経験が鍛えた向上心。

「これくらいでいい」か「どこまでできるか突き詰めてみる」か。エンジニアの仕事は常に選択を迫られる。田仲さんは、高校時代から今まで、どんなときにも後者の道を選びながら成長し、現在では「極めてスペシャリストが少ない分野」で高い評価を勝ち得ている。

「子ども時代は早く世の中に出たいといつも思っていました。生家があまり裕福でなかったこともあったのでしょうが、それ以上に自分の力で生きていけるようになりたいと考えていました」

地元で卒業生の活躍と、授業の厳しさで知られた工業高校に入学した。待っていたのは、千本ノックのように、技術の基礎をたたき込まれる3年間だった。

「ほぼ毎日のようにレポートを出すことが求められました。そして、担任に提出したレポートがすんなり通ることは3年間一度もなかったでしょう。突き返される。泣きたい気持ちで書き直す。やっぱり、突き返される。その繰り返しの中で、メンタルが鍛えられました。『これぐらいでいい』という気持ちでいるのと、より高い水準を求めていくのと、積み重なってみると、成長の度合いがとてつもなく違ってくるのを感じていました。担任は柔道部で鬼と呼ばれたスパルタ教師。柔道部に所属していたのでダブルで鍛えられましたね(笑)」

工業高校に入ったときから、いつも片側に進学という選択肢を持ちつつ、やはり早く設計の仕事をしたいと思っていた。安定した地元の電力会社に入社することも考えたが、設計をするのは困難に思えた。最終的にたどりついたのは「学歴にかかわらず、設計の仕事ができる」という触れ込みのメイテックだった。

歴史ある企業の重電領域で、
徹底的に基礎をたたき込まれた。

入社して最初の1年間は、名古屋本社でメカトロ6期生(※)として、弱電の電気回路全般に関する研修を受けた。

「そこでも課題を与えられ、設計して試作することの連続。学校時代からさらに一段、高いレベルの技術に鍛えられました」

最初の配属先は、大手企業の重電部門で、電力会社のための設備の設計・開発・据え付けまでを行っている部署だった。

「無効電力補償装置を開発している部署でした。発電所から送られてくる電力は、電圧、電流の二つのサインカーブになります。この二つの位相がそろっていれば力率100%です。しかし、実際には、負荷側の影響で位相がずれ、ロスが出ます。これをもう一度、位相をそろえて力率を改善します。数十人のエンジニアが何年にもわたってかかわる巨大装置でした」

そこは伝統のある企業で、派遣社員も責任を持って育てなくてはいけないという風土があり、大変助けられたという。職場の人たちが技術のことをよく知っていて、一つ一つ聞きながら教えてもらい、重電、とくに電源部分の基礎を徹底的に習得することができた。

「ダイオード一つとっても非常にサイズが大きく高価。部品選定も全体に大きな影響を与えます。この観点は先輩に教わり、あらゆる製品に通用するものだと思います。その一方で、歴史ある企業ならではの情報の伝え方の難しさも知りました。図面を描いて通すのに、上長の承認が得られなくては、前に進めません。図面の上に色鉛筆で補足をして、そこに何人かの責任者の承認印をもらって初めて動きます」

そこで知ったのは「情報には流れがある」こと。工程で言えば上流にある設計部門から、下流の組み立て現場に、どのようなタイミングと内容で必要な情報を流していくかで、工数も人件費も大きく変わってくる。このお客さま先の業務は7年間継続し、電源の基礎と情報の流し方に関する知識を得た。このことが、その後の仕事につながっていく。

(※)1985年から1993年までの期間、研修生として入社し、社内に設立されていたメカトロ研修センターで、1年間の研修後に配属されたエンジニアのこと。

より突き詰めた仕事をしたいと
気付いた医療機器製品設計。

「最初の配属先は、技術力は高かったが非常に狭くて深い技術領域で、スキルの横展開が困難な世界でもありました。そこに将来への不安を感じていました」

最初の復帰。その後配属されたのは、同じお客さま先ながら、まったく異なる医療機器のプリント基板やハーネス部分の設計部門だった。

「コストを非常に重視する仕事の仕方は新鮮なものもありました。一方で、製品としての目標をクリアできればOKという、とことん突き詰めて考えることができない仕事に、徐々に物足りなさを感じるようになりました」

このお客さま先は、コストと納期最優先の世界であり、一定基準の品質をクリアできれば良しとする。設計の思想や実現方法を記した設計書のような「根本」をしっかり固めきることなく、設計を進めてしまうところがあった。課題が生まれたら、そこでリワークをする仕事の進め方だったという。

「より深く奥深く、突き詰めた仕事」を求めて、田仲さんは再度のローテーションを希望した。

狭くて深い電源分野を、
世界水準まで突き詰める。

新たなる配属先となったのは、現在まで16年間継続している車載用電気機器メーカー。ここで2000年以来、ヘッドユニット、オートチェンジャー、カーナビ、カーオーディオなどの電源部分の設計を行っている。

「電源に先端的なイメージはありませんが、恐ろしく奥深い世界です。一つの製品が数百万台つくられ、わずかなコストの差が巨大な金額になります。また、製品が小型化する中で、電源は、他の機能が性能を優先し、面積を占有した残りの部分で勝負しなくてはいけません。ところがここに、実に大きな自由度があります」

基本は多くのサプライヤーがあるディスクリート部品を使う。これを組み合わせてコストと性能、そのぎりぎりのラインを突き詰めていく。たとえば、ある最終製品には許されないノイズ量も、別の製品なら問題ない。その場合には、過剰品質にならない部品選定を行い、コスト面で貢献する。

「それぞれの最終製品における、電源の機能と役割をとことん突き詰めていくことにより、利益を生み出すことができる。サイズこそ異なれ、最初に配属された電力会社向け設備開発と性質的には近い仕事といえるかもしれません」

電源分野では、世界の大手メーカー製品と自分が手掛ける製品を比較しても、負けないと自負している田仲さん。今後は新しい職場に変わるより、その分野で想定される新しい動きに関心がある。

「自動車分野では自動運転とロボット化が急進展していくことになります。そのなかで、現在担当しているヘッドユニットの分野が大きく変化しないはずがない。電源においても根本的に新しい取り組みが必要になる。変化の中で必ず起こる、劇的な技術変化の瞬間をサポートする仕事をしていきたいですね」

現在のお客さま先で、すでに二つの特許を取得した。さらに技術を研ぎ澄ましつつ、好奇心と向上心を持って前に進み続けることで、後輩の良き目標になりたいと力強く語った。


※当社社内報「SYORYU」:2016年春発刊号に掲載した記事です

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